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ピーターパン

Peter Pan

  1. 名舞台と思っていたのに
  2. ピーターパンは女優
  3. ピーターパンが嫌い?

名舞台と思っていたのに

大変残念なことだが、こんなにも居心地の悪くなる舞台があるとは思わなかった。作品がどうとか語る以前で、製作したホリプロも、演出家も出演者も揃ってミュージカルってものの何たるかを理解しているのか疑問だった。

ミュージカル《ピーターパン》が話題となったのは榊原郁恵が1981年から主演した新宿コマでの公演で、彼女が縦横無尽に飛び回る姿はテレビなどでも紹介されて、子供心に楽しそうだなぁと思ったものだ。1987年に榊原郁恵が結婚のため降板。しかし、ホリプロはその後も公演を続け、翌'88年の夏からバトン・タッチしたのは沖本富美代美智代の双子の姉妹だった。当時17歳、言ってみればずぶの素人だったのだが、元新体操の選手で国体にも出るほどの実力、その身のこなしを買われて、なんとホリプロ側からの出演要請だったらしい。僕は彼女たちが出演する3年目、場所を青山劇場に変えての舞台を観たわけだ。

結果はやはり今だ素人であった。動きは軽やかで申し分ないが、その他はおよそお金を取って人に見せるのは不適当。

これは彼女たちの責任じゃない。製作側の問題だ。《ピーターパン》というネーム・バリューだけでお客を呼べるのだから、「とりあえずピーターが空を飛んで、面白おかしく作ってくれればいい」程度の意識だったんじゃなかろうか。まったく選んだほうに問題がある。この年から演出を受け持ったのが加藤直という人で、これがまたミュージカルの「ミ」の字も知らないんじゃないかというお粗末なもの。何しろ、演出の意図がまるっきり不明。子供向けにしては明らかに娯楽性に欠け、大人向けにしては全体の作りがお子ちゃま。ものすごく中途半端なのだ。

この舞台、ブロードウェイでの初演は1954年。今観ると、やはりミュージカルの作りとして少々古くさい。ゆったりしていると言うか、第1幕などは『アイム フライング』に至るまでの音楽的流れが、最新の作品などと比べるとやや弱い。かなりの部分を台詞で処理してしまっているのだ。それを踏まえて、もっとドラマとして深みを持たせるべきではないかと感じたが、加藤直は芝居の徹底を施しておらず、そこに中途半端にミュージカルシーンが挿入されるものだから、何も心に留まらないのである。如何せん素人座長とダンサーばかりでは望むべくもないのだが、台詞はただ耳を通り過ぎる雑音に近いものがあった。

そうかと言って、見せ場の作り方もまた酷く、海賊船の上でピーターが立ち回りをする場面では双子姉妹を二人一役であっちからこっちから飛び出させるなんてことをしていたが・・・・・失笑である。なんというセンスの無さであろう。センスがないと言えば、主役ピーターパンの衣装(岸井克己)にしてもそう。ディズニーのアニメ映画以来、緑色の衣装が定着しているものを敢えて白色にしてあった。プログラムを読むと「照明によっていろいろな色に変化する白い衣装によって、観客に自由なイメージを持ってもらう」のが狙いだそうだが、僕の目には趣味の悪さが際立った。だってピーターの服は葉っぱでできているのだから。

フック船長は佐山陽規で、《レ・ミゼラブル》でジャベール刑事を演った人。フック船長の冷徹さや滑稽さをどう表現してくれるか非常に楽しみだったのだが、結果は不満足。思った以上に存在感がなく、滑稽味が勝ちすぎていて、ドラマに深みを与えるには程遠かった。さすがに歌は巧かったが、これも思った以上に軽い声で(ジャベールはドスの利いたバリトン)、原作にあるフックの品性みたいなものが歌からは感じられなかった。他の出演者は言うも愚かというものだったが、唯一孤軍奮闘していたのはウエンディ役の中里美保で、1,200人の応募の中からオーディションで選ばれたということだったが、芝居も動きもなかなか堂に入った説得力のあるものだった。劇団四季に在籍していたこともあるらしく、だからかどうかは解らないが、台詞が明瞭に聞こえるところが他の出演者とは格段に違うところだった。

ピーターパンは女優

さて、ことほどさように酷い印象の舞台だったのだが、少しだけ成り立ちに触れておこう。原作はもちろんスコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの小説である。ピーター・パンという少年はバリーの私小説「小さな白い鳥」(1902)の中に初めて登場する。そのうちの数章を独立させて書き上げたのが戯曲「ピーター・パン、大人になりたがらない少年」(1904)で、これは当時ロンドンで上演され相当なヒットだったらしい。そして当時からピーターは女優さんが演じ、舞台の上でフライングをしてたようだ。その後、1906年に「ケンジントン公園のピーター・パン」、1911年に「ピーター・パンとウェンディ」が出版された。ミュージカルはこの「ピーター・パンとウェンディ」が基になっている。

先ほども触れたが、ブロードウェイでの初演は1954年10月20日、ウィンター・ガーデン劇場。ちょうどこの一年前にディズニーのアニメ映画が公開されていて、こちらもやはり原作は「ピーター・パンとウェンディ」、ミュージカル仕立てだが、脚本も音楽もまったく違う。ブロードウェイ版はなんとメアリー・マーティン主演。演出・振付は ジェローム・ロビンズという豪華な組み合わせで、フック船長役はオーストラリア出身のシリル・リチャード、全152公演であった。

1979年にはサンディ・ダンカン主演でリバイバル。551公演のロングランとなり、郁恵ちゃんの新宿コマ公演はこのヒットを受けてのものだった。さらに1990年にはキャシー・リグビーの主演でリバイバル公演された。彼女は沖本姉妹ではないが元体操のオリンピック金メダリストである。

ちなみに公演当時、メアリー・マーティンは41歳、サンディ・ダンカンは33歳、キャシー・リグビーは38歳。これを聞いては、日本の配役の若いことよ! ドラマの深みも何も出るわけないか・・・と思ってしまった。何せメアリー・マーティンは日本で言ったら、そうだなあ・・・草笛光子ぐらいのミュージカル界の大女優だと思うのだが、そんな人が演った大役を素人がやるんだから、そりゃあ無理ってものかも知れない。

ピーターパンが嫌い?

あまりにも有名な話なので、あらすじなど必要ないとは思うが念のため。

ロンドンに住むダーリング家は、その夜両親がパーティーに出かけた。その隙にピーターパンが子供部屋に自分の影を取り戻しにやって来る。影がくっつかないと泣くピーターの声に目を覚ましたウエンディは、ピーターに飛び方を習い、弟のジョン、マイケルと一緒にネヴァーランドに行くことに。そこでウエンディは迷い子たちの母親役となる。ピーターパンは海賊の親分フック船長に命を狙われ、フックは自分の左手を食われ、その味を気に入ってつけ回すワニに怯えていた。決闘の末、フックを倒し、ウエンディたちは家に帰ることになるが、ピーターだけは大人になることを嫌がる。やがて時は経ちウエンディは母親となり、ジェインという娘ができる。その子にもまたネヴァーランドの冒険が始まる――

僕は昔から原作を読んでも作品の世界に入り込めないところがあった。

まずだいいちに、主人公ピーターパンが好きになれなかったことにある。大人になりたくないという気持ちは理解できないこともないが、それを周りにも強要するし、忘れっぽく(と言うより覚えていられない病気のよう)、ひどく身勝手なのだ。ウエンディは成り行きでごく自然に母親役を受け入れるのだが、背伸びした物言いもどこか不格好で、背伸びというよりはおままごと的感覚で母親を演じている短慮さが哀れに映る。そして何よりもウエンディたちが“神隠しに遭う”みたいな設定が、どうしようもなく嫌だった。ディズニー・アニメでは両親がパーティーから戻ってくると、それが一晩の夢であったかのようになっているが、原作では両親にとてもとても心配をかけるのである。どうやらその辺りが長年この物語を好きになれない原因かも知れない。

今回、改めて原作に目を通して思ったのだけれど、「死」とか「殺す」あるいは「血」「虐殺」などという単語がかなり頻繁に出てくる。子供向けのものに残酷な描写は極力なくす方向にある今からは考えられないが、冒険活劇には必要な表現なのだろうか。結構血なまぐさい物語でもある。ティンカーベルなんて嫉妬のあまり、迷い子たちにウエンディを射落とさせてしまうのだから、相当な極悪ぶりだ。

さて、その悪の立役者フックは、僕が大人になってしまった(?)からだろうか、どうしてなかなか魅力的に思える。子分を平気でズバッと殺ってしまうような冷酷無比な人物なのだが、実は教養と礼儀を身に付けた英国紳士である。絶品は、ピーターパンとの決闘の場面。フックは最期の瞬間、剣で刺されずにピーターに足で蹴落とされることを選び、“相手の行儀の悪さに勝利した”と満足げにワニの口へと落ちていく。なんというウィットか。それから、これも書かずにはおれないのだが、人魚の湖でピーターに自分の声真似をされ、訝ったフックが「もしおまえがフックなら、この私はいったい誰だ?」と問うと、ピーターに「タラだ。ただのタラだ」と言われヘコんでしまうのだ。もう大爆笑である。ミュージカル版ではフック船長と子供たちの父親ダーリング氏を同じ俳優が演じるのだが、あたかも礼儀と権威のシンボルのように仕立てた、このアイデアは大したものだ。

蛇足だが、僕はむしろ「ピーター・パンとウェンディ」の母体にもなる「ケンジントン公園のピーター・パン」が結構好きだ。生まれてすぐピーターは大人の人間になることを拒否し、母親の元から逃げ出す。ケンジントン公園で楽しい日々を送るが、母親の所へ帰ろうと思ったときには別の赤ん坊が腕に抱かれている――子供のままでいたいと願うピーターは、実は母親に放棄され、誰かの子供としてはいられないという悲しい男の子なのだ。

ここまでさんざんこき下ろしておいて何だが、数あるミュージカルの中でも『I'm Flying』の場面は最高だと思っている。ピーターが “First I must blow the fairy dust on you. Now, think lovely wonderful thoughts... and Up You'll Go!” と言って浮き上がる時の高揚感といったら喩えようがない。初演時からのピーター・フォイの手になるフライングは本当に見事で、ウエンディ、マイケル、ジョンと共に舞台を飛び回るその軽やかさは何にも勝るエンターテインメントである。

そうだ、また話を蒸し返すようだが、加藤直演出の舞台ではこの “Up You'll Go!” が「ほーらね」と、あまりにもあっさりとした言い方なのでガッカリしてしまった。キャンディ、キャンディと騒ぐマイケル役の子も「クリスマス!」と言う時のワクワク感がちっともなくて、ああ、書き始めるとキリがないので止めるが、楽しく豊かに魅せるポイントをハズすということがどういうことか、ぜひ理解して欲しい。

[1997.9.22]

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