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レ・ミゼラブル

Les Misérables

  1. 初めてのミュージカル
  2. パリ発ロンドン産
  3. 日本公演
  4. さらに再演を重ねて
  5. 2000年
  6. ニュー・ヴァージョン

初めてのミュージカル

1989年夏、僕は生まれて初めてミュージカルというものを観た。それまでミュージカルはおろか劇場に足を踏み入れたことさえなかった僕にとって、それは衝撃的な出来事だった。

まず驚いたのは、全編台詞がなくて歌だけの構成だったことだ。僕が抱いていたミュージカルに対するわずかなイメージは、映画の《サウンド・オブ・ミュージック》を代表とする物語の合間に歌が挿入される形だったし、ロンドン・オリジナルキャストのCDを事前に聞いて観劇に臨んだが、当然いつかは台詞が入るんだろうと思っていた。ところが、いつまで経っても台詞は出てこず、物語は歌に乗せてどんどん進んでいってしまうのだ。

さらに、椅子やテーブル、門といった簡単な大道具と回転舞台だけで時間や空間を表現してしまう。3重になったお盆がひたすら廻りまくり、長大な物語が実にスムーズに展開していく。パリの街やバリケードになるあのシュールな巨大装置(ジョン・ネピア)は、お盆の上で自ら意志があるかのように角度を変え、まさに演出の一端を担っている。母親(ファンテーヌ)が息を引き取る向こう側から、その死を知らない幼いコゼットが登場するシーンなど、見事なまでに回転舞台が効果的に使われているのだった。

だが、いちばん衝撃を受けたのは音楽の力だ。全編が歌だけなのにも驚いたが、何よりもその音楽で語り尽くしてしまうパワーだ。それぞれ登場人物が歌うナンバーのドラマ性、短い歌詞に込められた雄弁さ、アンサンブルの圧倒的迫力。見終わった後、しばし茫然と席に座り尽くしてしまうぐらいの衝撃であった。

パリ発ロンドン産

現在上演されている《レ・ミゼラブル》は1985年にロンドンで初演されたものだが、その原型となったのは、1980年9月にパリのパレ・デ・スポールでロベール・オッセンによる演出で上演されたものだ。もちろん作詞アラン・ブーブリル、作曲 クロード=ミッシェル・シェーンベルクによるコンビだ。4,500人収容できる大規模なイベントホールで、3ヶ月延べ50万人を動員するヒットとなったらしい。

上演に先立ち発表されたコンセプト・アルバムを聴くと、今日知られている版とはガラリと様相が違う。現在のプロローグに当たるシーンは存在せず、ジャン・バルジャンはいきなりマドレーヌ市長として登場する。フランス人なら誰でも知っている物語なので、説明的箇所は省いたのだそうだ。音楽もまだ荒削りで構成も今とはずいぶん違うが、すでにエッセンスは出来上がっており、その演劇性豊かな旋律に驚くばかりだ。

英国のプロデューサー キャメロン・マッキントッシュはこのアルバムに感動し、ロンドン・ウェストエンドでの上演を決めた。演出家には《キャッツ》で組んだトレバー・ナンを迎え、彼と共にロイヤル・シェークスピア・カンパニーの《ニコラス・ニクルビー》でも共同演出したジョン・ケアードが呼ばれた。イギリス上演に当たっては、バリケードの場面に重点を置き、プロローグや下水道のシーンを加えたりと、パリ・アリーナ版を大幅に改作し、2時間強だった上演時間も3時間を超える大作になった。RSCの協力の下、1985年10月8日に劇団のロンドンの本拠地バービカン劇場で開幕し、さらに2ヶ月後の12月4日にはパレス劇場に移し、ロングラン体制に入った。

役をクリエイトするオリジナル・キャストの果たす功績というのは絶大だが、《レ・ミゼラブル》はひときわだと思う。リハーサル期間中にバルジャン役コルム・ウィルキンソンの素晴らしいハイ・テナーのために『彼を帰して』が書かれたのは有名な話だし、シェークスピアが主戦場の性格俳優ロジャー・アラムをジャベールに配し、見事なバリトンでバルジャンとのコントラストが際立つ。他の役もあまりにも見事にハマっていてマイケル・ボール(マリウス)や フランセス・ラッフェル(エポニーヌ)、レベッカ・ケイン(コゼット)など、彼らじゃなかったら《レ・ミゼラブル》はおよそ現在の形にはなっていなかっただろう。ファンテーヌを演じたパティ・ルポンはオリビエ賞を受賞している。

ニューヨークでの開幕は1987年3月12日、ブロードウェイ劇場('90年にインペリアル劇場に移動)。ロンドンのスタッフが丸ごと製作に携わり、キャストではコルム・ウィルキンソンとフランセス・ラッフェルが参加した。トニー賞では作品賞をはじめ8部門を獲得している。

日本公演

ブロードウェイでの開幕から3ヶ月後、'87年6月17日に東宝の製作で日本公演が開幕した。日比谷・帝国劇場でいきなり5ヶ月の長期興行だった。過去に劇団四季が《キャッツ》を一年ロングランしたことはあったが、商業演劇の老舗・東宝としては思い切った決断だったろうと思う。また、全役をオーディションで決定するという、これまた過去に例を見ない試みが行われた。鹿賀丈史、滝田栄、鳳蘭、斉藤由貴といった東宝からのオファー組に交じり、内田直哉や一躍脚光を浴びた島田歌穂が抜擢され、アンサンブルにはまったくの素人もいれば新劇やオペラ界などからも人材が集まった。演出にはジョン・ケアードが招かれ、開幕前に約9ヶ月にわたる「エコール」と呼ばれる集中レッスンを行ったのも話題だった。

フジテレビが協賛し、テレビ・スポットもたくさん流れていたのを記憶しているが、残念ながら初演の舞台を僕は観ていない。衝撃的だった'89年の舞台も、その印象だけで細かいところは実はよく覚えておらず、'91年に帝劇4演目となる再演が行われ、僕の感想はほぼここからのものだ。

ミュージカル《レ・ミゼラブル》が感動を呼ぶのは、極論するとヴィクトル・ユゴーの原作に因るところが大きい。世界中の人々を感動させた大ベストセラーなのだから当たり前である。それは大前提だが、とにかくその厖大なる叙事詩ゆえにそれまで舞台化が難しかった。それを歌だけの形式――ポップ・オペラにしたことが最初の成功の鍵だったろうと思う。説明的な部分を最小限に抑え、音楽と舞台転換だけで描写していくスタイルを採ったからこそ3時間余りで舞台化できたのだ。

それにしてもスピーディで鮮やかな舞台転換だ。僕は、プロローグ直後のナンバー『一日の終わりに』が大好きなのだが、19世紀前半のフランスの人々の貧しさやファンテーヌの置かれている状況が、わずか4分の間に語られる。この間、装置として出てくるのは工場の門だけだ。逆に聞かせどころではきっちりと聞かせる。それぞれのソロ・ナンバーによって登場人物のキャラクターをより鮮明にする効果もある。

舞台効果の中でも特筆すべきは照明(デヴィッド・ハーシー)だ。渦巻くセーヌ川までもライトだけで見せてしまうが、何と言っても登場人物たちが天に召される時の真っ白い光は感動的。全体的には暗めの混沌とした貧しさを醸し出すが、その瞬間だけはまさに神々しいのだ。

僕をミュージカル好きにしたきっかけでもある話題の島田歌穂は、噂に違わず素晴らしかった。彼女が素晴らしいのは、もちろん卓越した歌唱力があってのことだが、何よりも抜群の説得力があることだ。ことさらあざとく演じたりはしない。音楽に逆らわず、エポニーヌという少女が吐露する言葉を素直に歌に乗せ、キャラクターと見事に合致していた。

当初はジャン・バルジャンとジャベール刑事を交互に演じていた鹿賀丈史滝田栄は、ともにバルジャンのみを演じるようになったが、それぞれ個性の違う役作りで、僕は吠えるように歌う滝田栄より、歌が安定している鹿賀丈史が好きだった。

当時はメインキャストとセカンドキャストという扱いで、プログラムに載る写真の大きさまで違ったが、セカンドの中でも石富由美子のファンテーヌと今井清隆のジャベールはメインキャスト以上に魅力的だった。コゼットは鈴木ほのか白木美貴子だったが、白木は初演ではエポニーヌのセカンドだったと聞くから、この2役を演じたのは世界でも珍しいのではないだろうか。それと、セカンドキャストは皆アンサンブルでも出演していて、これがまた豊かに見えたものだが、石富由美子などファンテーヌから手紙を取り上げて工場長に告げ口する女性を演じていたから面白い。

メインキャストの魅力は、知名度から来る華やかさだったと思う。初演から演じていた野口五郎は高い声が出るぞとばかりに『カフェ・ソング』のキーを一つ上げていたし、安奈淳は安定はしていたけれど、ここぞと言う時の爆発力がない。松金よね子はコミカルで憎めないマダム・テナルディエだったが、阿知波悟美のほうが歌は数段巧かった。だが、何となく観ていて華やぐのだ。こればかりはいかんともしがたいものがあった。

余談だが、この公演まで資生堂がメインのスポンサーだったので、劇場に入ると蘭のような香水の香りがした。僕は街でこの香水を嗅ぐとパブロフの犬のように《レ・ミゼラブル》のことを喚起してしまった。

さらに再演を重ねて

1994年8月2日
帝国劇場(夜の部)
ジャン・バルジャン 鹿賀 丈史
ジャベール 今井 清隆
コゼット 宮本 裕子
マリウス 石井 一孝
テナルディエ 斎藤 晴彦
テナルディエの妻 杉村 理加
エポニーヌ 島田 歌穂
アンジョルラス 岡 幸二郎
ファンテーヌ 絵馬 優子

1994年の公演の目玉は、思いきった若手の起用だった。マリウス、アンジョルラス、ファンテーヌ、コゼット、マダム・テナルディエと、ほぼ無名に近い俳優もいた。

とりわけ注目されたのは石井一孝岡幸二郎の二人だ。岡幸二郎は劇団四季に在籍していたこともあり歌が巧いのは知っていたが、石井一孝はまったく知らなかった。甘いマスクで女性ファンの心を一気に掴んだが、僕が感心したのは野口五郎とは異なるアプローチで、一言で言うと“共感できるマリウス”を作り上げたことだった。ユゴーの原作でさえマリウスという青年は下手をすると嫌われそうなキャラクターなのだが、石井はひたむきさを自然体で表現できるタイプの役者だと思った。

この公演での『ワン・デイ・モア』は忘れることができない。ご存じのように合唱付き八重唱のこのナンバーは、キャストがばっちり揃わなければいくらPAを駆使しても全パートがきれいに響いてはこない。必ず誰かが突出し、また誰かがめり込んでしまうのだが、この日はまるで神業のように全声部が役目をきちんと果たし、稀に見るハーモニーが感動を与えてくれた瞬間だった。『ワン・デイ・モア』にこれほど感動したのは、後にも先にもこの日だけだった。

1997年にも再び上演された。日本初演10周年記念ということだったが、前回の公演とは一変、今度はビッグ・ネームがたくさん登場した。ファンテーヌには岩崎宏美が復帰、鈴木ほのかもコゼットから役を変えての登場だった。マダム・テナルディエには夏木まり、森公美子、前田美波里と個性のまったく違う大物三人。コゼットは宝塚出身の純名里沙と元アイドル歌手の早見優、エポニーヌのダブルキャストに本田美奈子と、とくに女性はズラリと並んだ。男性ではジャベールに川崎麻世と加納竜。そして、バルジャンに劇団四季を退団後初の舞台となった山口祐一郎がキャスティングされた。

注目は日本で3人目となる山口祐一郎のバルジャンで、歌の巧さに定評があるだけに大いに期待をしたが、初役のためもあり、かなり動きの固いバルジャンに見えた。だが歌はさすがで、日本で初めて『バルジャンの独白』をオリジナル・キーで披露した。山口の歌うこのナンバーを聞き、♪ジャン・バルジャンは死んで生まれ変わるのだ~ という過去の自分に決別するこの場面の重要性を再認識させられた。ただし、『彼を帰して』は他の二人同様キーを若干下げていた。山口が歌ったこの日は、川崎麻世、岡幸二郎、石井一孝と軒並み長身の男優陣が揃い、舞台映えする役者が増えたものだと思った。

その他では、純名里沙のコゼットが好演だった。この役は出番も少なく、エポニーヌやファンテーヌに比べて、ある意味損な役なのだが、何よりもキャラクターが彼女に合っており、宝塚の娘役独特のソプラノもここではハマっていた。久々に返り咲いた岩崎宏美は、ひところの声量は若干影を潜めていたが、島田歌穂と共に初演時に絶賛されたファンテーヌは健在と思われた。

ロンドン初演から10周年を迎えた際は、ロイヤル・アルバート・ホールで記念コンサートが催された(テレビ放映もされた)。ブロードウェイでは10周年を迎えるに当たり、出演していた俳優たちに違約金まで払ってキャストを総入れ替えし、作品全体も再点検が行われ、台本や音楽の一部に手直しが加えられた。

日本での10周年記念公演では、このブロードウェイ版が使用された。音楽の手直しについては、たとえば6拍だった所を4拍にしたり、伴奏を少し変えるなどの細かいもので、さほど必要とは思えなかった。演出の手直しはさらに微に入り細を穿つといった感じで、クリエーターたちの作品に対する愛情だと理解した。そしていちばんの目玉は、バルジャンと幼いコゼットが森の中で出会うシーンが挿入されたこと。とても良いシーンで、このようなアイデアはロンドン初演の段階でどれぐらいあったのだろうか。ほかにもあるのなら観てみたいものだ。

[1998.1.5]

2000年

帝劇で初演してから14年目。もう何度も観ているので、ポイントはキャストの出来だが、今回は、元・劇団四季の役者さんを中心に公演日を選んでみた。山口祐一郎(バルジャン)、鈴木綜馬(ジャベール)、堀内敬子(コゼット)、岡幸二郎(アンジョルラス)という面々。

山口は前回よりも余裕が出たのか、芝居に心を配るようになった。岡は比較的長くこの役を演っていて、カリスマ性のある学生リーダーを貫禄さえ見せながらこなした。ほとんど彼の持ち役である。堀内、鈴木は今回が初役だが、どちらも実力派だけに安心感がある。特に堀内敬子は、コゼット役としては、かつての純名里沙や宮本裕子と並んでベストに挙げていいと思う。ただ問題は鈴木綜馬で、明らかにミスキャストだった。この日、いちばん大きな拍手はジャベールの第1幕のナンバー『星よ』に対してだった。たしかに抜群の歌唱力で声量豊かに歌い上げ、ナンバーとしては楽しめたが、テノール声の鈴木では、バルジャンとの対比が薄らぐし、何よりも学生みたいなのだ。それに、迫力を出すためにかなり荒々しく声を張り上げることもあり、鈴木本人の喉のためにも、この役を続けるのはどうかと思う。

他の役では、森公美子、石井一孝が説得力のある演技を見せて、素晴らしかった。逆に、1987年の初演時から出演している島田歌穂、斎藤晴彦、岩崎宏美らは、声量の衰えが隠せなかった。ことに島田は、第2幕のソロ・ナンバー『オン・マイ・オウン』こそきっちりと歌っていたが、エポニーヌ役では余人の追随を許さなかったハマリ役だっただけに、この日は観ていて痛々しかった。

[2001.2.24]

ニュー・ヴァージョン

21世紀に入りキャストを一新、ブロードウェイでの人件費削減のためにカットを加えた短縮版での上演だった。

印象から言うと、ダイジェスト版のダイジェストという感じだった。
そもそもこの舞台は、原作を大胆にダイジェストで見せて成功したわけだが、すでに完成したものとして10年以上も観ている作品だけに、カットされた箇所が手に取るようにわかる。そして、その場面の効果もわかっているので、首を傾げることも少なくなかった。音楽も芝居も先を急いで前のめりしている感じで、たとえば『プリュメ街』のシーンではマリウスもコゼットも何だかバタバタとせわしないし、バリケードなど「もう陥落してしまうの?」という印象。幼いコゼットは、自分の体ぐらいある大きな椅子をテーブルから下ろしながら歌うので、声が震えていた(これはこれで哀れっぽいが)。たしかに不必要と思える場面もあるが、これから先ずっとこのヴァージョンで上演するとしたら少し残念だ。

今回改めて大々的なオーディションを行って選ばれた俳優陣だったが、まずは総体的に若いなぁという印象だ。とくにジャベール役は適役が一人もいない。何しろ全員がテノール声を無理矢理張っているのだ。かつての鈴木綜馬や川崎麻世にも言えることだが、学生役のほうが似合うような若やいだ声なので、バルジャンとのコントラストが弱い。岡幸二郎など「高音が得意です」とばかりに『自殺』のシーンでオクターブ高く歌うという暴挙に出ていた。岡と同じくアンジョルラス役から移った今拓哉も歌は巧いが、どうしても若さが見え隠れする。アンジョルラス役のロンドン・オリジナル・キャストのデヴィッド・バートも後にジャベールを演じたが、ソフトな声が持ち味の二人とは声のタイプがそもそも違う。内野聖陽や高嶋政宏は東宝の《エリザベート》で注目を集めた人だが、歌のポテンシャルが低い。高嶋はそれを補おうとする余り、思い切った独自の解釈で役を作っていたが、泥臭く暑苦しいジャベールは僕の観たいジャベールとはかけ離れていた。今さらながら村井国夫のようなバリトン声が、日本では貴重なのだと思った。

バルジャンは四者四様で非常に楽しめたが、いちばん未知数であった別所哲也が素晴らしかった。歌の語尾とビブラートが少々気になるが、それを帳消しにするほどの、非常に細やかで的確な芝居が魅力で、暖かみのある声質もキャラクターにぴったりだった。別所の細やかな演技を観ると山口祐一郎は何ともあっさりと感じた。今井清隆も山口同様、声の魅力で押すタイプのバルジャンだったが、芝居には努力の跡が見られた。石井一孝も懸命に演じていたが、彼はもう少しマリウスでいたほうが良かったのではないか。初演の鹿賀丈史や滝田栄と年齢はあまり変わらないが、彼の個性そのものがまだ若いのだ。ちなみに今井と石井は『彼を帰して』をオリジナル・キーで歌った。

エポニーヌ役は島田歌穂の存在があまりにも大きいため、損なのではないかと思っていたが、意外にも人材がいちばん揃った。観た中では新妻聖子が良く、『恵みの雨』のシーンで久々に胸に迫るものがあった。

マリウス役だが、残念ながらずば抜けた才能は散見されなかった。岡田浩暉はなぜか第2幕のそれも『カフェ・ソング』あたりになると声の調子が悪くなり、泉見洋平は鼻に掛かった声と高音になると突如変わるオペラ声に違和感を覚えた。山本耕史は初演でガブローシュ少年を演じた人だが、バルジャンの別所同様とても細やかな芝居をするのが好感を持てた。声量がないのがとても惜しい。

アンジョルラス役は、背が高く二枚目の吉野圭吾に人気が集まっていたが、僕には彼の良さはわからなかった。第一に声に力が足りない。ここいちばんという時に声が前に飛ばないのだ。内田直哉をはじめ何人ものアンジョルラスを観てきたが、最も良くなかった。それに比べ坂元健児は劇場中にビンビン響き渡る声量が魅力で、今回いちばん才能を感じた一人だ。

ファンテーヌについては、中ではマルシアが良かった。《ジキル&ハイド》でも見せた歌の力がここでも発揮されていた。人気が高かったのは高橋由美子だが、成果は予想どおりでそれ以上でも以下でもなかった。とくに歌唱は非常に子供っぽく雑な印象。井料瑠美は期待していたが、音域が合わないのかビブラートが掛かりすぎて声に芯が無く、非常に聞き苦しい歌になっていた。関係ないが、井料と今井清隆が絡むシーンを観ていて、ふと「この二人、ファントムとクリスティーヌだったよなぁ」と思ってしまった。

コゼットについてはさして印象に残るものでもなかった。テナルディエも然り。斎藤晴彦のようなウィットとペーソスを自然と滲み出せるようになるまでは程遠い。マダム・テナルディエは森公美子で止めを刺す。彼女の動き一つ一つがコミカルで、この作品でのテナルディエ夫妻の役割をきっちり果たしていた。彼女の陽性のキャラクターは暗い物語の中で本当にホッとする。宝塚のトップ・スター二人は適役とは思えなかった。かつて鳳蘭、大浦みずきもこの役を演じたが、無理矢理汚い役を演る必要があるのだろうか?

[2003.9.25]

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