ジーザス・クライスト=スーパースター
Jesus Christ Superstar
イエス・キリストとその時代
イエス・キリスト(=ジーザス・クライスト)を題材にしたストーリーは、キリスト教にまったく見識のない僕には根本的な理解はできない――そう思っていたので、単純に音楽劇として旋律や歌を楽しめればそれで良いやと考えていた。
そうして臨んだ舞台はしかし、想像をはるかに超えて深く僕の心を揺さぶった。
観終わってすぐに思ったのは、時代背景を学び、福音書を多少なりとも知れば、もっと面白いはず。
ローマ帝国領のパレスチナ。圧政に苦しんでいる民衆に、奇跡を起こす“救い主” “神の子”と讃えられ、支持されていたジーザス。弟子の一人イスカリオテのユダは、力を持ち過ぎたジーザスが“普通の人間”であることで、やがて人々を失望させ、殺されてしまうことを危惧しているが、忠言を師から拒まれてしまう。
ユダヤ教の司祭たちは、自分らの立場を脅かすジーザスの存在を疎み、処刑することを企む。居場所を教えるよう迫られたユダは、銀貨30枚で売り渡す。捕らえられたジーザスは、支配者たちの間をたらい回しにされた後、ローマ帝国総督ピラトによって磔の刑に処されるのだった――
当時のパレスチナは、ヘロデ朝と呼ばれる時期で、ヘロデ・アンティパスがガリラヤを統治していたが、実質的な権力はローマ帝国が握っていた。かのジュリアス・シーザー(=ユリウス・カエサル)が皇帝の時代だ。そのシーザーに任命されユダヤを治めたのが総督ピラト。だが依然、ユダヤ教も強大な権力を保っており、登場するのが大祭司カヤパやアンナスである。
ヘロデ王とローマによって重税を課せられ、ユダヤ教は腐敗し、人々は何重にも苦しめられている。
そこに救世主となって現れたのがジーザスである。ナザレという土地で生まれ、母は聖母マリア。聖霊によってジーザスを受胎したと天使ガブリエルに告げられる。大工の父ヨセフは養父ということになる。
ジーザスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、当時のユダヤ教に変わる新たな教えを説いていく。4つの福音書には、怪我人を癒やしたり、死者を生き返らせたり、水を葡萄酒に変えたりという様々な奇跡が記されている。そうして教えを広め、苦しむ民衆に救いを与えることで、次第に支持され崇められていくジーザス。
――と、ここまでが、ざっくりとした物語の前置きということになろうか。
はじまりはアルバム制作から
作品の発案は作詞のティム・ライス、作曲のアンドリュー・ロイド=ウェバーの2人(当時25歳と21歳の若者!)。キリストが十字架に架けられるまでの最後の7日間のストーリーを、裏切り者ユダの視点で描き、音楽はロック調で作られた。
当初より舞台作品を念頭に制作されたそうだが、舞台化に興味を示す人物が現れず、まずはコンセプト・アルバムという形で2枚組のLPレコードを1970年に発表。これに先立ち1969年に『スーパースター』をシングルで発売してヒットとなった。イスカリオテのユダ役には、ティム・ライスに見出された当時まだ無名のマレー・ヘッド。このほかアルバムに参加したのは、ディープ・パープルのボーカルであるイアン・ギランがジーザス役、後にエリック・クラプトンのバックボーカルなども務めたハワイ出身イヴォンヌ・エリマンがマグダラのマリア役であった。アルバムはビルボードで年間1位を獲るヒットとなり、翌1971年にブロードウェイのマーク・ヘリンジャー劇場で舞台化された。ユダを演じたベン・ヴェリーンはトニー賞にノミネートされている。ロンドンでは翌1972年に初演され、1980年まで3,358回のロングランであった。
日本では劇団四季が《イエス・キリスト=スーパースター》の邦題で1973年に初演。この時の演出がジャポネスク版の基礎となる。演出はもちろん浅利慶太。鹿賀丈史や市村正親がこの公演でデビューを飾っている。その後、1976年に今のエルサレム版となる演出で再演され、表記も《ジーザス・クライスト=スーパースター》となった。
奇抜のジャポネスク版
僕が初めて本作を生で観たのは1991年、青山劇場でだった。この直前、劇団四季は、ロンドンで行われたジャパンフェスティバルという日本文化を紹介する催しに参加する形で、ウエストエンド・ドミニオン劇場でこの作品を上演した。その凱旋公演である。
演出は前述の《イエス・キリスト=スーパースター》を踏襲したジャポネスク版と呼ばれるもので、演者は隈取りメーク、ヘロデ王は花魁を従え、大八車が動き回る真っ白な舞台、伴奏には三味線や鼓、尺八などの和楽器を絡ませ、それは大胆で斬新なつくりであった。これを見た本場のロンドンっ子は、さぞかし度肝を抜かれたのではなかろうか。
けれど、その外面的なエキセントリックさの向こう側に見えてくるのは、登場人物たちの心のうねり。隈取りのジーザスを少し距離を置いて眺めれば、その表情は絶えず苦悩を湛えており、和楽器の咆哮からはユダの苦しみが伝わってくる。楚々としたマリアの白塗りは、無垢な愛を浮かび上がらせる。
大八車の舞台づくりも、後にエルサレム版を観てから思ったのだが、配置がとても工夫されていて観客の物語への理解を助けてくれていた。
さて、元となったCDを聴く限り、地声シャウト系のロック作品なので、端正さが魅力の劇団四季が、日本語でどうこの音楽を聴かせてくれるのか。岩谷時子の節度ある訳詞に乗せ、英語版とは趣の違った声楽ベースの唱法で、熱さの中にも抑制の効いたとても四季らしい音楽劇だった。
出演陣で筆頭に挙げるべきは、もちろんジーザス・クライストを演じた山口祐一郎。長身のアドバンテージを遺憾なく発揮した存在感と抜群のカリスマ性。ビンビン響く声は、ほかの声楽科出身の演者に引けを取るどころではない上に、少し無機質に響く声色と演技がジーザスの神々しさにピッタリだった。
イスカリオテのユダには飯野おさみ。彼も申し分のない素晴らしい好演だった。飯野の声は、良くも悪くも“善い人”に聞こえるのだが、その特性が裏切り者ユダに人間味と哀れさを醸していた。すべてはジーザスのためを思ってやったことなのだと納得させる、そこはかとない“善い人”を感じさせるユダで、僕はこのニュアンスが作品に不可欠な要素だと思っている。ちなみに彼は、1973年の初演に同役で出演している。
マグダラのマリアは保坂知寿。しっとりと艶のある声がかつて娼婦であった役柄とマッチし、伸びやかな高音で歌う『私はイエスがわからない』は、そののち誰がどう歌おうともこれほど感銘を受けたことはない。ちなみに四季では、同曲をオリジナルから2つ上げたホ長調で歌う。初演でマリアを演じたソプラノ歌手の島田祐子に合わせたものではないかと思われるが、このキーがとても心地良い。
カヤパに佐川守正、アンナスに青木朗と、声楽畑の二人が絡む司祭のやりとりは迫力満点。ペテロの林和男も声楽科卒の美声、芝清道は《李香蘭》の王玉林を演っていた人で、男気溢れるシモンを熱演していた。
演者全員が良かったが、総督ピラトの光枝明彦は出色で、磔の刑を言い渡す最後の絶唱は、オリジナル・アルバムや他の欧米公演のどのピラトよりも胸打たれる。
さらにヘロデ王役の下村尊則。助六姿のヘロデが不思議と中性的に、竹の棒をグルングルンと回しながら歌い踊るのだが、元々バトントワリングをやっていた人らしく、これが極上のエンターテインメント。この日、いちばんの喝采を浴びたのは彼であった。
盤石のエルサレム版
エルサレム版は1994年の公演で、初めて観ることができた。
1973年公開のノーマン・ジェイソン監督の映画版を経て、ずいぶんと影響を受けたであろうエルサレム版だが、劇場に入り舞台装置を見ただけで、ジーザスはこういう荒野を生きたんだという否応ない説得力。ヒッピーの若者が演じているという二重構造もなく、ただ純粋にエルサレムを再現する。
この公演を観て、いちばんに浮かび上がったのが民衆に扮するアンサンブルの熱だった。ジャポネスク版では日本的演出に目を奪われ、民衆の熱にあまり気が行かなかったかも知れない。ヴィジュアルがシンプルであるが故に、民衆に押し潰されるジーザスがより鮮明に映った。“神の子”と誉めそやされ、救いを求めて『ホサナ』と讃えられるが、癒やしを欲する病人たちに囲まれ、ついには十字架に架けろと見限られる。この民衆の移ろい。浅利慶太の演出の肝が、まさしくここにあるのは明白なのだ。
さらには、物語の軸がジーザスに対するユダの逆説的な愛(小藤田千栄子先生の著書より引用)だということを強く感じたのも、この公演を観た後、ジャポネスク版を振り返ったときだった。
それはジーザスが捕らえられる際の合図であるユダの接吻の場面で、前回公演ではたしか真正面から口づけをしていたと思う。僕はそれに結構びっくりした記憶があったのだが、この公演では頬にキスをしたのだ。ゆえに、いささかインパクトを欠いたと同時に、それがただの合図に過ぎないと感じた。
この接吻シーンをはじめ、各国様々な演出がある中で、ユダに同性愛的色合いを持たせることも多いと聞く。異論もあるだろうが、僕はそれで良いと思う。ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」でも“裏切り者”として描かれるイスカリオテのユダなのだが、劇中で吐露するとおり、彼はジーザスを愛していたのだ。師と仰ぐだけではない、一人の男を愛していたがために、その手で死に追いやってしまうという動機が、本作のエモーショナルな要素であろう。だからこそ接吻は、裏切りの合図としてだけでなく、愛の証しに見えるべきだと思うのだ。
そしてもう一点、演出に疑問が残ったのが、ユダの自殺のシーン。ジャポネスク版では大八車の向こうに落ちて行くので、自死したことがわりと明確に伝わったのだが、エルサレム版では舞台中央の穴に、ユダがもがきながら吸い込まれていく。映画ではわかりやすく首を吊っているし、これはもう見せ方によるものではあるのだけれど、地面に呑み込まれる様子は、大きなものに抗えなかったという印象が強く、苦悩の果てに自ら命を絶った哀しい最期のほうが良かった気がする。
前回の公演とほとんどキャストが一緒だったが、ユダにはロンドン公演でも演じた沢木順が登場。けれど彼は、期待していたほどには刺さらなかった。何と言うか、愛の物語なのにもうひとつ色気がなく粗野な感じで、もっと切なく繊細な役作りのほうが哀れさが際立つように思う。マグダラのマリアには野村玲子。たおやかな声と姿は良かったが、こちらも期待ほどではなかった。両者とも長くこの役を演じていて、1987年出演時の二人の歌唱を聴いたことがあるが、その時よりも歌唱に勢いがなく精彩を欠いた。
あと、ちょっとガッカリしたのが伴奏テープなのだが、四季は1976年のキャストでサウンド・トラックを録音していて、その際の演奏(スーパースター・アンサンブル)と同じ音源を使用していた。さすがに音が古めかしい。もう少し洗練させられるのではなかろうか。
本場ウェストエンドで鑑賞
1997年にロンドンに旅行した際、ウェストエンド・ライセウム劇場でリバイバル公演を観ている。
主役ジーザスはスティーブ・バルサモという新人さんで、この役で一躍人気者になった。マリアは《ミス・サイゴン》のスタジオキャストCDでキムを務めているジョアンナ・アンピル、ピラト役には《レ・ミゼラブル》のアンジョルラスのオリジナル・キャストであるデヴィッド・バートが出演していた。
装置は《キャッツ》などを手掛けたジョン・ネピアで、円形のステージをしつらえて繰り広げられる。何よりも本場イギリスの地で、英語で聴く喜び。
ただ実は、舞台そのものはあまり印象に残っていないというのが本音。個々の役者のアピールは強く、とにかく誰もがバリバリ轟く声量で、バルサモの『ゲッセマネの園』は圧巻の一言だったのだが、アンサンブルとしていまいちまとまっていないと感じてしまった。それだけ四季の舞台が素晴らしかったということだと思う。演出はゲイル・エドワーズ。
キリスト教において、イエスは処刑された3日後に復活を遂げるわけだが、この舞台では“復活”が描かれない。それはなぜならジーザスは“神の子”ではなく“普通の人間”として扱われているから。このことを含め、一部敬虔な信者たちにはこの作品が冒涜と捉えられ、抗議されることがあると言う。
日本では、宗教的背景が浸透していないので、苦悩する若者の物語として観る客も多いと思う。でもそれは楽しみ方の一つであって良いし、信者ではないからこそ共感する部分を見つけられたりもするものだ。
[2001.10.28]