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キャッツ

キャッツ

  1. エポックメイキング・ミュージカル
  2. 生まれたのか 闇の中で
  3. 劇団四季の社運を賭けて
  4. 各地の猫たち
  5. 猫の詩集
  6. いろいろな猫をお目にかけよう
  7. 新生《キャッツ》

エポックメイキング・ミュージカル

さあ、《キャッツ》を語るにはまず何から始めたらいいだろう?

いかにミュージカルを知らない人でも《キャッツ》と聞けば「ああ、劇団四季の」とか、はたまた主題歌『メモリー』を聞けば、曲名はわからずともどこかで耳にした覚えがあるのではないだろうか。

僕も実際、その程度の知識しかなかったのだけれど、初めて舞台を観て・・・実はちょっと首を傾げてしまった。「ん? よく解らなかったぞ」と。ダンスは凄いし、仕掛けは派手だし、歌ありマジックありで、存分に楽しませてくれたんだけど、正直すぐには内容というか主題がよく把握できなかったからだ。

とにかく一歩劇場に足を踏み入れれば、そこはまさに“キャッツ・ワールド”だ。劇場中が空き缶やら古タイヤやらで飾られて(?)おり、それらが全部実物より大きい。つまり猫の目から見た大きさになっている。まるでテーマ・パークさながらに劇場全体がミュージカルの世界の一部なのだ。

さて、ちゃっかりと宣伝と思しきデッカいお菓子の空き箱などを眺めつつ席に着くと、やがてオーバーチュアが流れ出す。するとなんと前列の客席が180度回転して、そこに舞台が出現し、いよいよ《キャッツ》の始まりなのである。

あらすじと言っていいかどうか、一応記しておこう。

満月の夜、都会のゴミ捨て場に猫たちが集まり、天上に昇ることの許される“ジェリクル・キャッツ”を選ぶための舞踏会が開かれる。個性的な猫が次々に紹介されていくが、踊りの輪に入れずにのけ者にされていたグリザベラという老いたメス猫が“ジェリクル・キャッツ”に選ばれるのだった――

この舞台はとにかくすべてがユニークだ。何しろ主人公が猫なのだから。俳優たちはみな猫のメーキャップをし、毛玉の付いた全身タイツに耳に尻尾という出で立ち。劇場の至る所に猫たちが出入りできる穴があり、知らぬ間に突如目の前にいたりする。

出てくる猫たちもみんなユニークだ。グータラに見えるおばさん猫はネズミたちと華麗にタップダンスを披露し、つっぱり猫ラム・タム・タガーは気に入った女の子を舞台に上げて一緒に踊り出す。老いぼれ劇場猫のガスは若かりし日の当たり役グロールタイガーを熱演し、神出鬼没なマキャヴィティは劇場の其処ここから現れ、長老猫オールド・デュトロノミーを連れ去ってしまうのだが、マジシャン猫ミストフェリーズのマジックで救出される。ちなみに僕は鉄道猫スキンブルシャンクスのナンバーが好きで、猫たち総動員でゴミ置き場のガラクタを集めて列車を作ってしまうところなんか、もう何とも言えぬ高揚感に包まれる。

そして、グリザベラがかの名高き『メモリー』を歌い上げ、デュトロノミーから“ジェリクル・キャッツ”に指名されて天上に昇っていく。ラストは特大のタイヤが宙に浮き、その上でデュトロノミーが「猫は求めるのだ 唯一のその名を」などと何やら哲学的な台詞を残して幕である。

・・・・・あの薄汚いメス猫はなぜ選ばれたの??? そう、よく解らなかったいちばんの理由はそれなのだ。“ジェリクル・キャッツ”とはどうあるべきか。それを語るナンバーもあるのだが、どうあっても選ばれたグリザベラは当て嵌まりそうもない。ところが『メモリー』を歌い終えると、今まで遠巻きにしていた猫たちが彼女に近づき手を差し延べるのだ。うーん、どうやら謎はこの名曲に隠されていそうだぞ。

『メモリー』については後ほど触れるとして、《キャッツ》の本当のマジックとは実はこういうところにある。一度観ただけではすべてを理解し尽くせない。でも、何だか楽しくてまた観たくなる。テーマについてひとしきり考えさせられて次に観たときには新しい発見がある。こうしてリピーターを生み、《キャッツ》は世界各地でロングランになっていったのだろう。

生まれたのか 闇の中で

すでによく知られていることだが、作品の着想は作曲者アンドリュー・ロイド=ウェバーである。

イギリス人の彼は、子供の頃から親しんでいた一冊の詩集に曲を付けることを考えていた。T.S.エリオットの「おとぼけおじさんの猫行状記(The Old Possum's Book of Practical Cats)」だ。そして出来上がった数曲が1980年、ロイド=ウェバーが開催するシドモントン・フェスティバルで披露された。当初はそれら猫の詩を結び付けるストーリーラインはなく、コンサート形式や歌曲集として発表されるはずだった。だが、この試演を耳にしたエリオットの未亡人ヴァレリー・エリオットが、彼の未発表の猫に関する詩の草稿数篇をロイド=ウェバーに送ったところ、その中にあった「グリザベラ――娼婦猫(Grizabella, the Glamour Cat)」というわずか8行の詩の断片がモチーフとなり、本格的なミュージカルにすることを思い立ったと言う。そして、この話をプロデューサー・キャメロン・マッキントッシュに持ちかけ、ミュージカル《キャッツ》のプロジェクトがスタートしたのだった。

ロンドン・ウエストエンドの開幕は1981年5月11日。演出家にはロイヤル・シェークスピア・カンパニー(!)のトレバー・ナンを迎え、場所は、1965年に改築して以来一度もヒット作がなかったニュー・ロンドン劇場。このロンドン最悪の劇場を安く借り上げ、客席も舞台もすべてキャッツ用に作り替えてしまった。美術を担当したジョン・ネピアは舞台装置と言うより劇場空間すべてをデザインした。さらにジリアン・リンの振付はクラシック・バレエをベースに猫の仕草などを巧みに取り入れた斬新なもの。

だが、その何もかもが斬新だった故か、プレビュー初日は現在の大ヒットからは想像できないお寒いものであったらしい。プロデューサーはクローズを考えたほどだったと言う。ところがオープン後まもなく主演のエレイン・ページが歌う『メモリー』が全英チャートでヒットし出し、おかげで今の成功に結び付いたのだった。当初主役のグリザベラはジュディ・デンチがキャスティングされていたが、稽古中にアキレス腱を断裂し降板。そこで急遽代役を務めたのが、《エビータ》でヒロインを演じたエレイン・ページだったのだそうだ。

さらにその『メモリー』についても、オリジナル・プロットにこの曲は入っていなかったらしいのだが、リハーサル中に演出家が「ショーストップ・ナンバーがあったほうがいい」と提案し、ロイド=ウェバーは「それならば」とその場でピアノで弾いて聞かせたのだとか。あれほどの名曲が、こうして思いがけなく世に送り出され、しかも主役が交代していなかったら作品自体がヒットしていたかわからないとは、《キャッツ》おそるべしである。

ニューヨークでの開幕は、それから一年半後の1982年10月7日、ウィンター・ガーデン劇場。ロンドンのスタッフがそのまま乗り込んでの上演だった。やはりロンドンと同じように上演のために劇場を大改装した。何しろショー・ビジネスの頂点ブロードウェイでの上演である。その意気込みたるや相当なものだっただろう。また、ブロードウェイ側も「ロンドンから凄い作品がやってくるらしい」ということで、初演の俳優陣は錚々たる実力派が顔を揃えた。ロンドン版に若干の手直しを加え、トニー賞でも作品賞をはじめ7部門で受賞している。

劇団四季の社運を賭けて

日本では1983年11月11日、改めて申すまでもないが劇団四季が創立30周年記念として上演した。劇団にとってはまさしく大きな賭けだったに違いないが、日本のミュージカル史にとってもまた、とてつもなく革新的なことだった。

まずは無期限のロングラン公演を行うというもの。そのために《キャッツ》専用の劇場を建設してしまったのだ。場所は西新宿、建設費用は約3億円。それまで日本の商業演劇は1ヶ月単位の興行が当たり前であったが、《キャッツ》上演に当たって最低でも5億円の制作費が掛かり、これを回収するにはどうしてもロングランする必要があった。だが当時、既存の劇場ではそれは不可能であり、また劇場を大幅に改装しなくてはいけないという物理的な問題もあったのだろう。専用劇場(と言っても仮設)での上演に踏み切ったのだ。

それからチケットの販売に“チケットぴあ”のコンピューター・システムを導入したこと。今ではごく当たり前のように利用しているそれらのチケット販売も、実はこの《キャッツ》の初演を契機に始まったものなのだ(本格スタートは翌'84年4月)。また大手企業(フジテレビや味の素)がスポンサーとなり、テレビ・コマーシャルなども積極的に活用して大々的にPRを行うなど、《キャッツ》の上演はある種イベント的雰囲気であったと言う。

西新宿での公演は、都有地返還の事情でちょうど一年後の1984年11月10日に千秋楽を迎えたが、その後、大阪、名古屋など各地で上演を続け、現在も上演中だ。

各地の猫たち

日本版《キャッツ》は非常に高品質の舞台だった。
――と思ったのはブロードウェイとロンドンの公演を観てからだった。特にブロードウェイの舞台は酷く、「これなら遊園地でヒーロー・ショーを観ていたほうがよほどマシ」と思うほどだった。とにかく俳優がそれぞれやりたい放題でまるで緊張感が感じられない。初演からすでに12年以上も経過していたので無理もないのかも知れないが、こんなにもスカスカな舞台になってしまうものかと悲しくなってしまった。緊張感がないのはスタッフも然りで、最悪はラストのタイヤが浮く場面。スモークがものすごくショボくて、せり上がらせる支柱が丸見え?! ガッカリである。ちなみにウィンター・ガーデンでは前列の観客席は回転しない。

ロンドンではもう少しマシだった。 何しろ原作の舞台となった地だってこともある。角々しいイギリス英語でエリオットの詩がそのまま歌われるのだから、その雰囲気だけでも“本場”って感じてしまうのだ(←単純)。ただ、舞台が全体的に(よく言えばシックなのだが)なんか地味だなぁ・・・という印象であった。観客席が回転すればやっぱりワクワクするし、役者さんだってブロードウェイほどではないにしろ結構やりたい放題演っているのだけど、たとえばミストフェリーズのマジックひとつとってもいまいち精彩がないし、どこか地味に見えるのだ。ショーとしての見せ方の違いなのだろうか?ちなみにこちらはブロードウェイのように舞台奥の壁がバーンと降りてきて海賊船が現れる仕掛けはない。

劇団四季の公演では何が良かったって、その端正な舞台作りだ。ともすると面白味に欠けると感じる方もおられるだろうが、僕は各々の俳優が《キャッツ》という作品世界をはみ出さないで演じているところに非常に好感を持った。やりたい放題とは言い換えれば、演じている猫としてではなく、ほとんど“素でふざけて見える”というようなことなのだが、四季の役者さんにはこのおふざけがない。他の二ヵ所同様、客席に降りてきて目の前でパフォーマンスしたりもするのだが、常に《キャッツ》の枠の中にいるという感じなのだ。エリオットの世界としてはこの端正さがとてもマッチするように思う。

それに日本では客席は回るし、海賊船は奥の壁から出てくるし、ロンドンとブロードウェイのおいしいところを貪欲に取り入れた豪華版。グリザベラが天上に昇るところも、タイヤが浮くところもドライ・アイスたっぷりで幻想的だったし、ステージがとても丁寧に作られている印象だ。

ただし、日本公演で残念なのが『ランパスキャット』の場面が初演後カットされてしまったこと。このシーン、ロンドンやブロードウェイのオリジナルキャスト盤のCDなどでもカットされているのだが、僕は結構楽しいと思うし、ぜひ一度日本語で観てみたいと思っている。

猫の詩集

「荒地(The Waste Land)」などで有名なノーベル賞詩人T.S.エリオット。僕などはどうも暗くて重くて難しいというイメージが先に立つが、《キャッツ》の原作となった「The Old Possum's Book of Practical Cats」(1939)は、当時エリオットが勤めていた出版社フェイバーの同僚の子供たちのために書いたと言われる、いわば戯れ歌集だ。猫たちを語る“Old Possum=ポッサムおじさん”とはエリオットの先輩詩人エズラ・パウンドが彼に付けたあだ名だとか(ちなみに“ポッサム”とは動物のオポッサムから来ているのだそうで、外敵に襲われると死んだふりをする習性があるという袋ネズミの一種――転じて“とぼけた”という意味)。個性的な猫が登場する15篇の詩は、言葉遊びや語呂合わせなどを交え、キュートでユーモラスだ。エリオットを有名たらしめた他の著書とは趣がガラリと違う。

しかし、ミュージカル《キャッツ》はただユーモラスなだけではない。それはまず第一に、先述の「Grizabella, the Glamour Cat」のためだろう。当初この詩は「The Old Possum」の中の一篇にするつもりだったようだが、子供たちにはあまりにも悲しすぎるので、最後の8行だけを書いてお蔵入りになったのだそうだ。演出のトレバー・ナンはこのグリザベラに「いずれ死ぬべき運命とぬぐい去れない過去」というテーマを見出し、物語に奥行きを与えた。

さらにエリオットの大作詩集「四つの四重奏(Four Quartets)」の中の「ドライ・サルヴェイジズ(The Dry Salvages)」第2章を引用し、『幸福の姿(The Moment of Happiness)』というナンバーが作られた。第1幕と第2幕の間奏で長老猫によって歌われるこの曲には、作品のテーマとなる重要なヒントが内包されていると思う。英詞を参照すると、「幸福であった瞬間を経験した者がそのことの真の意味を見つめるとき、それは幾世代にもわたる幸福の経験(=the experience of many generations)となる」――つまり“普遍のものとなる”というものだ。

『メモリー』も同じくエリオットの「風の夜のラプソディ(Rhapsody on a Windy Night)」という詩を基にして作られた。トレバー・ナンが作詞を担当したが、第1幕の幕切れでは過去の栄光にすがるだけの悲しい姿で袖に消えていく。しかし、『幸福の姿』が挟まれ第2幕で歌うときには、「幸福だった瞬間の思い出を明日に繋げれば、真の幸福の姿がわかる」となる。幸せの姿(=what happiness is)を知る者こそがすべての者を幸福に導くことが出来る。その事を託されたからこそ、グリザベラは天上に昇るただ一匹の猫“ジェリクル・キャッツ”に選ばれたのだと僕は解釈している。

なーんて、知ったような風に書いたが、本当のところはよく解っていない。よく解説書などに《キャッツ》のテーマは「救済」って断言しているものがあるのだが、そう言われても僕にはちっとも釈然としない。

考えてみると、一見ユーモラスなエリオットの原詩にしても実は容易に読み解けるものではない。昔から猫には神秘的なイメージが持たれてきたが、そんな猫の世界を通して(或いは借りて)、人間世界をアイロニックに映し見ている、それだけで十分に奥深いのだもの。

ところで、“ジェリクル・キャッツ”って何?四季の広報によると「無限の可能性を秘め、飼い猫になることを拒否して、どんな逆境でも自分らしく生き抜くことを選んだ猫達のこと」なのだとか(?)。解るようで解らん。“Jellicle”というのはエリオットの造語。

いろいろな猫をお目にかけよう

《キャッツ》は四季お得意のアンサンブル・ミュージカルなのだが、その中でさらに役者としての個性が出ると舞台がより豊かになる。

まず挙げるべきは初演からずっとジェニエニドッツを演り続けている服部良子。笑顔をいっぱいに振りまき、「イィヤァーー!!」と雄叫びをあげながら踊るタップを観るたびに、こちらも心から楽しくなってしまう。まさに四季《キャッツ》の屋台骨なのである。

ミストフェリーズで華々しくデビューした加藤敬二。マジシャンを父に持ち、まさしくこの役を演るためのダンサーみたいだ。彼の踊りには、何と言うか吸い込まれるような力があり、舞台のどこにいても存在感がある。同じくこの役を持ち役にしている羽根渕章洋。小柄なのでより原作のイメージに近く、デュトロノミーを捜し出し一同から拍手喝采された時のはにかんだ仕草が“らしい”。

ブロードウェイの舞台にも立った堀内元が、品川に登場した。バレエ・ダンサー特有のしなやかな手の動きなどが、見慣れた他の猫たちとは異質なのだけれど、有無を言わせないオーラがあった。ジリアン・リンが彼のために特別に振り付けたシーンは圧巻。

個人芸としてもっとも個性が出やすいのがラム・タム・タガーだと思う。みんなそれぞれ一工夫していて楽しいが、とくに沢木順が印象的だった。出演者の中でもかなりベテランのほうだが、会場を湧かせるツボを心得ていて、加藤敬二などとは違う方向で存在感があった。それにしても歌の巧さよ。ファントムを演れるほどの人だけのことはある。

グリザベラについては志村幸美で止めを刺す。エレイン・ページを除けば、世界一のグリザベラと言ってもいい。彼女の『メモリー』はまるで天上の音楽で、劇場を突き抜け宇宙に響き渡るかのようだった。僕が誰かの歌声に全身が震えるほど感動したという経験は数回しかないが、そのうちの数少ない一つだ。

[1997.12.6]

新生《キャッツ》

昨年の福岡公演から四季の《キャッツ》がリニューアルしたと聞いて、一度観てみたいと思っていたが、やっと実現した。

それまで仮設劇場での公演を続けてきたわけだが、なんと既存の劇場にセットを誂えての上演になり、衣装や振付も変更になった。回転席がなくなってしまった代わりに二階席があり、もちろん猫たちは二階にもしっかり来る。衣装についてはロンドンなどのそれに近くなり、ラム・タム・タガーはプレスリー風の真っ白な衣装から、ミック・ジャガー風の黒っぽい衣装になり、タントミールというメス猫は毛玉の付いていないツルッとした衣装でひときわ目を引く。振付は加藤敬二が担当。より激しく、よりダイナミックになった印象だ。

結論から書くと、僕は以前の舞台が好きだった。変化に対応するのが苦手なのかも知れないが、今回のリニューアルでは僕が最も愛する端正さが薄れてしまった気がする。入魂の振付はややトゥーマッチな感じだし、全体的に見せ場を強調しすぎているように思う。また、見せ場のために伴奏が新たに録音されていたが、これまで使われていた伴奏と繋ぎ合わされていたりして、ひどく聞き苦しかったのも残念。

出演者に関しては新人のダンサーが何人も起用されており、若く溌剌としたダンスは良かったが、如何せん没個性に陥りがち。役者の個性が舞台を豊かにすると書いたが、その点において華やかさが足りないのも事実で、それも含めて総体的にリニューアル版が満足行かなかったのかも知れない。

やはり今回も一人気を吐いていたのが服部良子で、あとはこれと言う配役はなかった。グリザベラ役は金志賢という韓国出身の女優さんだった。ソプラノ声で美しく歌う人がキャスティングされることが多かったが、『メモリー』を地声で出すシャウト・タイプ。新鮮ではあったけれど、もう一回聴きたいってほどではない。日本語の発音も若干違和感が残り、興を削ぐ瞬間があった。

ところで、四季の舞台にも立った堀内元が、昨年ついにウェスト・エンドの《キャッツ》に出演した。三都市で舞台に出演したのは彼が初めてだそうで、また日本の舞台にも出て欲しい。

[1999.9.2]

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