デッドマン・ウォーキング
Dead Man Walking
- 1995 / アメリカ
- 監督
- Tim Robbins
- 出演
- Susan Sarandon
- Sean Penn
- Robert Prosky
- Raymond J. Barry
- R. Lee Ermey
- Celia Weston
- Roberta Maxwell
ルイジアナ州ニュー・オーリンズ。セント・トマスの“希望の家”で働くシスター・ヘレン(スーザン・サランドン)は死刑囚マシュー・ポンスレット(ショーン・ペン)と面会する。殺人はしていないと主張するマシューから上訴の申請書を提出し弁護士を見つけるよう頼まれる。死刑執行の日が決まり、弁護士ヒルトン・バーバー(ロバート・プロスキー)と特赦審問会に臨むが嘆願は却下され、ヘレンはマシューの精神アドバイザーを引き受けることになる。残るは知事への直談判が望みの綱だったが、上訴審は却下。マシューは死刑台へ向かうのだった――
初めてこの映画を見た時、単純に死刑制度反対と僕は思った。原作者のシスター・ヘレン・プレイジョーンも監督のティム・ロビンズも死刑には反対の立場だろう。
だが、いまいちど見直し、その思いは曖昧になった。初見で泣いた場面でも涙は出なかった。
具体的には死刑囚の母親が最期の別れで取り乱すシーンなのだが、愛する息子を失う彼女への同情よりも、死刑囚の犯した罪に対する嫌悪感が勝ったからだ。
罪の償いとは何だろう? 他人の命を奪ったのだから、命を以て償うべきか。それで遺族は気は済むのか。レイプされ畜生のように殺された被害者、人間としての尊厳を信仰によって与えられ注射によって死ぬ加害者。死ねば加害者の懺悔はそこで終わる。もし自分が被害者の遺族だったらと考えると、どうにもやりきれなくなる。
“I think killing is wrong, no matter who does it, whether it is me, you all or your government.(人を殺すのは間違ってる それがおれでも あんたたちでも 政府でも)”――死刑反対を声高に訴えるだけでなく、犯した罪の深さも克明に描き、双方のバランスを重んじた結果、作品としては今ひとつ力に欠けてしまった気がする。