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ジキル&ハイド

Jekyll & Hyde

  1. ミュージカル本来の姿
  2. ブロードウェイまでの道のり
  3. 二重人格の物語
  4. 正統派路線での成功
  5. 主役のつとめ

ミュージカル本来の姿

ミュージカルというのは総合芸術である。脚本、演出、振付、舞台装置、照明、衣装 etc... どれを欠いても成り立たないが、殊に Musical Play=音楽劇と銘打つからには音楽こそが何より大事だと、僕は常々考えていた。そしてミュージカルの舞台に立つ俳優さんたちは、その音楽をきちんと体現できる歌唱力がなければいけないのである。

それを証明してくれたのがマルシアだった。彼女が演じたルーシーという役に課されたナンバーは、異常に難曲揃いだ。本作品のCDなどを聴いてもらえれば解るが、ルーシー役を一貫して歌っているリンダ・エダーの歌唱力は、バーブラ・ストライサンドが引き合いに出されるほどの実力。もし日本で公演するとして、そのナンバーを歌いこなせる人がいるだろうかと思っていたのだが、キャスティングされたのがマルシアだった。彼女は今回が舞台初挑戦となるのだけれど、パブ「どん底」の階段に登場した時の華やかさと最初のナンバー『連れてきて』の第一声はまさに新たなミュージカル・スターの誕生の瞬間であった。外国語訛りの残る台詞は、“東南アジアから出稼ぎにきて夜の街で頑張ってます”みたいな感じで、妙に良い味を出してたと個人的には思うが、やっぱり芝居はぎこちなく、時に新派劇かと思うような言い回し。ミュージカル女優として一流かと聞かれればはっきり言ってまだまだではある。だが、細かいことはどこかへ吹っ飛んでしまうほどの圧倒的な存在感を見せつけた。そしてそれは歌唱力に裏打ちされたものなのだ。

日本のミュージカル俳優にいつも付きまとっていた物足りなさ――それは「歌」で観客を感動させる力に欠けているということだ。作品が少しぐらい不出来でも、音楽さえ素晴らしければ、そしてマルシアぐらいの「歌」を聴かせてもらえれば、僕はその舞台を許せてしまう。全体のレベルはどんどん上がってきてはいるけれど、「歌」だけで感動させることのできる俳優さんはまだまだ多いとは言えない。「歌」という事に重きを置き、マルシアを擁した英断と彼女の熱演に拍手を送りたい。

ブロードウェイまでの道のり

ニューヨークのプリマス劇場で幕を開けたのは1997年4月28日だが、この作品が初めて舞台に掛けられたのはそれを遡ること7年前の1990年5月のことだった。フランク・ライルドホーンホイットニー・ヒューストンの『ブロークン・ハーツ』などの作曲家)は、学生の頃からいつか「ジキルとハイド」をベースにしたミュージカルを作りたいという構想を温めていたらしく、作詞家のレスリー・ブリッカスを得て舞台化を実現させた。

ミュージカルを製作するに当たって、いきなりオン・ブロードウェイでの上演はあまりにもリスクが大きいため、近年は地方でのトライ・アウトを行うのが一般的だが、《ジキル&ハイド》もまずヒューストンのアレイ劇場で幕を開けた。演出には劇場の芸術監督グレゴリー・ボイド、主演はチャック・ワーグナー《イントゥ・ザ・ウッズ》のラプンツェルの王子役やジャベール、ビーストなどを演じた実力派で、1999年からスタートした全米ツアー・カンパニーでもジキルを演じた)。リサ役(のちのエマ)にレベッカ・スペンサー、そしてこの時からルーシー役にはリンダ・エダーが抜擢され、舞台はなかなかの好評であったらしい。

その公演を受け、コンセプト・アルバムが製作された。ジキル/ハイド役をコルム・ウィルキンソン、ルーシーとリサの2役をリンダ・エダーが歌っている。さらに'95年に今度はアンソニー・ワーロウのジキル/ハイドで2枚目のコンセプト・アルバムが録音され、その年、ツアーが組まれ全米各地をまわりながら舞台を練り上げていき、満を持してのブロードウェイへの登場だったわけである。主要キャストのロバート・クチオリ、リンダ・エダー、クリスティアン・ノールはツアー・カンパニーからそのままブロードウェイに出演した。

2枚のアルバムからもお判りのように、音楽に相当の自信を持っていることが窺える。ジキルの歌う『This is the Moment』は様々なスポーツ・イベントで使用されるほどのヒット・チューンとなった。ワイルドホーンはポップス畑の人らしく、どこかで耳にしたことがあるような極めてキャッチーな曲作りで、それがこの作品の大きな魅力となっている。それにしても主要3人に与えられたナンバーの音域の広さよ! 歌うほうも大変である。

ブロードウェイの舞台を中継したビデオがある。役者の表情や声色でジキルとハイドを演じ分ける演出は日本公演と同じで、タイトル・ロールはデヴィッド・ハッセルホフという人だったが、とにかくテンションが高くて驚いた。いささかセクシーさに欠ける感もあるが、客席からは黄色い声が飛んでいた。

だが、全体の印象は日本版とはだいぶ異なる。黒を基調とした舞台の上にさらに一段高い真っ赤な舞台を設け、主要な出来事がすべてその上で行われることで、虚構の世界を浮き彫りにする趣向だ。ナンバーの順番や扱われ方も違うし、登場人物のキャラクターも違う。自ら実験する薬は注射で(日本版は毒々しい蛍光ピンクの薬品を飲む)。

二重人格の物語

ロバート・ルイス・スティーブンソンが1886年に書いた「The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde」は過去に何度も映像化されたりして、「ジキルとハイド」と言えば、二重人格の代名詞のようになっている。原作を読んだ方ならおわかりになろうが、映画やドラマになったほとんどすべては(小説そのものが短いということもあるが)、アダプトして肉付けされている。本ミュージカルもやはり大幅に脚色が施されている。

1888年、ロンドン。医師ヘンリー・ジキルは、精神病棟に隔離された父親を救おうと、人間に潜む“悪”の部分だけを抽出して感情をコントロールする薬品開発の研究をしている。父親を使って人体実験を試みようとするが、病院の権力者たちに「道徳に反することだ」と拒否される。だが、街のパブで出会った娼婦ルーシーと雑談を交わしているうちに、ジキルは自身で薬を試すことを思い付く。薬を飲むと、ジキルの中にエドワード・ハイドという邪悪な人格が現れ、自分を見限った権力者を次々と殺害していく。そして、ついにはジキル(自分のもう一人の人格)に思いを寄せるルーシーを妬み、殺してしまう。実験は失敗に終わり、ジキルは医者として誠実に生きていくことを決意する。しかし、婚約者エマとの結婚式の日、もはや薬では抑制できなくなったハイドが現れ、エマに襲いかかる。ジキルの親友である弁護士アターソンは、ハイドに向かって銃を向ける――

原作のジキル博士は初老の独身男で、自分の密かな欲望を満たすために薬を作り出してしまうわけだが、ミュージカル版は薬を作る動機を観客に納得できるように工夫している。そして何より2人の女性をジキルとハイドの二面性を映す鏡のように登場させ、コントラストをより浮かび上がらせる(このアイデアは、1920年にジョン・バリモア主演で制作されたサイレント映画にすでに出てくるのだそうだ)。二重人格とは創作家の食指を動かさずにはおかない魅惑の題材らしい。

だがこの物語、突き詰めて考えると空恐ろしい。人間の中にある“善”と“悪”とを分離するために始めた実験は、結果、潜んでいた邪悪な本性が現れる薬が出来上がった。所詮人間は“悪の顔”を理性で抑制しているだけで、本質的な“善”など存在しない・・・・・のだろうか? そうは考えたくないものだ。

正統派路線での成功

さて、ブロードウェイの公演は、2001年1月7日にクローズするまで実に1,543回のロングラン・ヒットとなったのだが、批評家たちの劇評は芳しくなく、トニー賞ではほとんど完全に無視された(受賞した《タイタニック》を含めて秀作が揃った年でもないのだが・・・)。だがトニー賞を抜きにしても、日本版スタッフもやはりオリジナルの舞台には多少の疑問を持っていたのであろう。日本公演は独自の演出で望むということだった。

全体的にとてもオーソドックスに作り上げた印象であった。装置や衣装などもあまり奇をてらうことなく、それが非常に良い方向に作用していたように思う。何分にも題材が奇抜なので、舞台を奇抜にに仕立てようと思えばいくらでもやり方がありそうだが、そうしなかったのが賢明だった。脚本をきちんと読み込み、押さえるべきポイントをしっかりと押さえており、ナンバーを歌っている時の見せ方ひとつにしても、演出の山田和也はツボを心得ていると思った。ブロードウェイ公演は、この辺りがいささかやり過ぎだった。

装置は大田創で、19世紀のロンドンの町並みやパブの中、ダンヴァースの屋敷など、いずれも品の良いもの。小峰リリーの衣装も、ジキルのフロック・コートやエマのドレス、ルーシーの白いドレス(下着?)など、やはりさり気なく品が良い。高見和義が手掛けた照明は、とくにジキルとハイドによる『対決』のシーンの赤と緑のライトが印象的だったが、随所でツボを押さえて、良い効果を発揮していた。

逆にちょっと残念だったのはマルシア以外の演技陣で、とくに主演の鹿賀丈史。何だか痛々しかった。僕が観たのは東京公演千秋楽の前日だったのだが、聞くところによると、公演期間の途中で喉の障害を来したらしい。それはそうだろう。ジキルとハイドを演じ分けるのに声色を変えるのだが、ハイドになった時の太く荒っぽい声の出し方は、いかにも声帯に悪い。いちばんの聞かせどころである『時が来た』は、何度も声がひっくり返っていたし、マルシアを向こうに回した二重唱は押されっぱなしであった。だが、痛々しかったのは歌声だけで、芝居のほうはさすがの役作り。とくに感心したのはジキルだ。悪の化身ハイドは役者にとってさほど難しくはないと思うのだが、誠実な医者のほうはきちんと演じなければコントラストがぼやけて、役に説得力が失せてしまう。これでもう少し声の調子が良ければ、きっとこの場でも絶賛してたことだろう。

エマ役の茂森あゆみは、キャラクターがとても似合っていた。良家のお嬢さまだが親の進める縁談よりも自分の選んだヘンリー・ジキルを守ろうとする、まあ、この頃ではよくあるような設定なのだが、鹿賀丈史とのバランスも取れていて、良いキャスティングだと思った。だが、歌唱の面では期待ほどではなく、音大出のソプラノ歌手にはやや出しづらい音域を強い声で出さなくてはならず、かえって苦労しているように見えた。

弁護士アターソンには夢の遊眠社出身の段田安則。生真面目で親友への思いやりを感じさせる良い役だったが、歌い出すとこっちが固まってしまう。せめて最低レベルの歌は聞かせて欲しいところだ。エマの父親ダンヴァース卿は浜畑賢吉で、こういう人が脇を固めると安心だ。他に石川禅、荒井洸子、北村岳子といった実力派が揃い、アンサンブルの水準は非常に高かった。

総じて舞台の質はとても高く、久しぶりに正統派ミュージカルを堪能させてくれた。

[2002.1.10]

主役のつとめ

昨年の公演中には今回の再演が決定していた。実はその時は「もう観に来ることはないかな・・・」なんて思っていた。昨年の公演が良くなかったってことではなく、むしろ初演で緊張感の高い舞台に満足したので、良い印象のままにしておくほうがいいと思ったからだ。

ならば何故観ようと思ったかと言うと、エマ役の知念里奈に興味を惹かれたからだ。茂森あゆみも決して悪い出来ではなかったが、軽いソプラノ声に今ひとつ満足できなかったのも否めない。知念は高いベルティング・ヴォイスを持っていて、事によってはクリスティアン・ノールのようなスリリングな歌が聴けるかも知れないという期待があった。そして、その期待は裏切られなかった。圧巻はルーシーとの二重唱『その目に』。ラストの一声はマルシアに一歩も引けを取らない鳥肌の立つようなハーモニーだった。

だが彼女の場合、総体的に未熟さがあり、ベテラン鹿賀と釣り合わないのが難点だった。本人の年齢もあるのだけれど、恋人同士と言うよりは親子といった感じ。懸命に歌い演じていたが、その一所懸命さが伝わってきてしまう。特に気になったのはナンバーを歌う時に「声を出しますよ」って感じで体を揺さぶること。バレエ・ダンサーがピルエットをするときに「これから回りますよ」と、観ている者がわかるようなプリエをしては興醒めだったりするが、要はプロなら気張っているところを観ている側に悟られてはだめなのだ。まあ、初舞台なので仕方ないのかも知れない。知念のエマは満点には程遠かったが、でもどこか許してしまえる魅力と可能性を感じた。及第としてあげたい。

今回は、それ以上にジキル/ハイド役の出来がこんなにも舞台を左右するものなのだということを思い知らされた。鹿賀丈史は昨年とは別人のように絶好調だったのだ。役には一層深みが増し、さらに驚くばかりの声の迫力。劇場中にビンビン響き渡り、ジキルとハイドのコントラストが映えるのだ。前回観た時には、どうしても評判に比べて「そこまで素晴らしいか?」という思いが拭えなかったのだが、これでやっと溜飲が下がった。役者の調子如何でこんなにも舞台の印象が変わるとは! これもある意味、パフォーミング・アーツの醍醐味なのだろうか・・・。

マルシアはさらに巧くなっていた。正直、昨年は歌い出すと“マルシア節”以外の何者でもなかったのだが、今回は舞台用のヴォイス・トレーニングでも積んだのであろうか、発声が進歩していて、歌の魅力に磨きが掛かった。中でも素晴らしかったのは第2幕のラスト近くで歌う『新たな生活』。前回はさほどとも思わなかったのだが、文字通りクライマックスに相応しい迫力で、上演中はあまり拍手をしないこの僕が、思わず手を叩かずにはいられなかったほどだった。台詞が相変わらずだったのはご愛敬。

アターソンは段田安則から池田成志に交替した。パッと見ヘンリーよりもずいぶん若いなぁと思ったのと、台詞の喋り方にちょっと妙なアクセントがあるのが気になったが、歌は段田よりはいくらかマシだった。こういう地味な役に実力派がキャスティングがされれば、作品がもっと豊かになる。“歌える俳優”ではなく、“歌の巧い俳優”をだ。

ロングランを続けると往々にして緊張感が薄れていくことがある。だから、よほど気に入った作品でない限り繰り返し観ることはないのだが、今回は昨年の舞台にさらに磨きが掛かり、足を運んで本当に良かったと思う。蛇足だが、前回僕がお粗末だなぁと感じた『時が来た』や『ありのままの』の訳詞が手直しされていた。クリエーターたちが作品に真剣に取り組んでいる現れだろう。て言うか、直すべきだと思った箇所が僕と一緒だった。

[2003.2.2]

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