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コーラスライン

A Chorus Line

  1. オフ・ブロードウェイ発
  2. 迫力の群舞・愛され続ける主題
  3. もうすぐ30歳?!
  4. 苦心の翻訳
  5. 四季の“ジプシー”たち
  6. 駄作?映画版《コーラスライン》

オフ・ブロードウェイ発

作品名より上にスポンサー名などがついている興行を“冠イベント”などと言うが、オン・ブロードウェイで上演されるようなミュージカルには、作品名の上にその作品を代表する人の名が書かれることがある。たとえば、作曲家ではアンドリュー・ロイド=ウェバースティーブン・ソンドハイム、演出家ではトミー・テューン、はたまたプロデューサーではキャメロン・マッキントッシュやディズニーなどである。そして《コーラスライン》にも“冠”がいる。この作品の原案者であり演出・振付のマイケル・ベネットだ。

《コーラスライン》には原作となる小説や戯曲はない。今日では有名な話だけれど、それは一本の録音テープが始まりだった。ブロードウェイにはいつも大勢のダンサーがしのぎを削っている。常に舞台の仕事があるとは限らず、日々オーディションを渡り歩くような“ジプシー”と呼ばれるコーラス・ダンサーたち。マイケル・ベネットはそんな“ジプシー”を呼び出し、それぞれ抱えている悩みや体験談などを語ってもらった。そのテープを脚本家とともにまとめ上げ、1975年4月15日に客席数わずか299のニューマン劇場(パブリック・シアター)で《コーラスライン》は幕を開けた。その3ヶ月後(7月25日)にはオンのシューバート劇場に移ったと言うから、開幕直後から相当な人気だったのだろう、1990年4月28日にクローズするまでなんと6,137回(!)も上演され続けたのだった。物語の主役はそんな“ジプシー”たちだ。

迫力の群舞・愛され続ける主題

リチャード・アッテンボローが映画化(1985年)したので、ストーリーはご存じの方も多いだろう。

演出家ザックの新作ミュージカルのオーディション会場。やがて男性8人、女性9人が最終選考に残り、そこで演出家は「自分のことを話してほしい」と要求する。はじめは戸惑うダンサーたちも、次第に様々なエピソードを語り始める。そんな中、ダンサーのうちの一人が膝を故障し医者に運ばれてしまう。「もし、踊れなくなったら、この日この時、この仕事を辞めなければならないとしたら、君たちはどうする?」というザックの問いに、ダンサーたちは『愛した日々に悔いはない』と歌い上げる――

オーディションという外枠があるのみで、一見ただダンサーたちのエピソードを繋ぎ合わせてあるだけのような脚本。派手な舞台装置も衣装もなく、舞台には鏡、そして質素なレオタード姿のダンサーたちだけ(フィナーレはゴールドの燕尾服)。そんな捉え様によっては地味め(?)な作品が、一体どうしてそれほどまでのヒットになり得たのだろうか。

幕開き、劇場が真っ暗になり突然叩き付けるようなピアノのイントロが鳴り響くと、舞台の上には24人のダンサーたちが鏡に向かって激しいダンスを踊っている。僕ら観客は早くもここで舞台に引き込まれるインパクトだ。Benett の振付は斬新でカッコ良い。俳優たちが次々と語っていくエピソードがまるでパズルのように見事に構成してあり、その見せ方がとても鮮やかだ。バレエを夢見る少女の話は次々と別のダンサーに歌い継がれてやがて三重唱になり、思春期の悩みを告白する場面では一大ダンスシーンを展開する。マーヴィン・ハムリッシュの音楽もまたポップで親しみやすい。こういった外的要素だけでも当時としては十分に新しいものであっただろうが、目新しいだけで15年もの長きに渡り愛され続けられるものではない。

前述のようにダンサーのリアル・ストーリーがベースになっている。家族、自我、セクシュアリティ etc... 若いダンサーたちの悩みやコンプレックス、体験談を聞きながら、観客たちは舞台上の俳優に自分を重ね合わせる。そして何よりも“一人一人が特別な人”という作品の主題が共感を呼ぶのだ。僕らは生きていく上で常に何らかの「集団」の中に存在し、その「集団」に埋没しがちなものである。しかし、誰もがそこから“自分”という「個」としての尊厳(アイデンティティ)を堅持し、認知してもらいたいと願っている。涙誘うポールの告白も、ゲイであることを勇気を持って話したことが感動を呼ぶのではなく、ゲイであるがために自分を押し殺してきたポールが父親に“息子”と呼ばれ、それまで孤独の中にいた彼の尊厳が認められたことで救われる。だからこそ、観客はともに涙するのだと僕は思う。

『ワン』というコーラス・ナンバーで謳われているのは、まさに「個」の尊さであり、その「個」が作り出していくアンサンブルの素晴らしさであり、ひいては人間社会への賛歌なのだ。これこそがブロードウェイ史上ナンバー1のロングラン記録を支えた最大の魅力ではないかと思う(ちなみにロングラン記録は後に《キャッツ》に塗り替えられた)。

もうすぐ30歳?!

僕が初めてこの作品を観たのは、奇しくもブロードウェイでクローズしてしまった1990年の12月、日生劇場でだった。

それまで《レ・ミゼラブル》《オペラ座の怪人》と、音楽中心の作品しか観たことがなかったし、ダンスなどというものにおよそ興味のなかった僕だが、オープニングからその群舞の迫力に一瞬にして圧倒された。東京での上演は実に5年ぶりと言うこともあり、初めて観る人も少なくなかったのだろう。この日の観客はとくに反応が良く、自己紹介のシーンから始終大きな笑いが起こっていた(と言うのも、その後回数を重ねるたびに「この前はここで笑いが起こったのになぁ」と思うことが多くなり、リチーの「男です」という台詞までシ~ンとしてしまうこともあった)。

ところでこの自己紹介の場面、劇団四季が上演するときはダンサーたちが生まれた年を上演した年から換算している。だから初めて観たときはもうすぐ30歳のシーラは1960年生まれだったが、今年の1月に観た際は1970年生まれになっていた(ひえぇ~)。ちなみにブロードウェイの公演では時代設定が1975年とされ、シーラは常に1945年生まれ。

それともう一つ。ザックに「ブロンクスってどんなとこだ?」と聞かれ、ディアナが「だから川向こうって言ったでしょ。ここから上へ行って右へ曲がって川を渡るの」と答える台詞がある。シューバート劇場ならばそうなのだろう。ブロードウェイ・ミュージカルならではの台詞だ。そうなのだ、日生劇場であろうと青山劇場であろうと、設定は“とあるブロードウェイの劇場”ということになっている。

四季版の、場所はニューヨークなのに時代設定は現在というのは、いずれ無理が来るのではないだろうか。初演の頃は、時代の風潮を映す現代劇であったわけだが、今となってはもはや立派な古典と化している。もういい加減、1970年代を描く古典作品として上演したほうがいいと思う。

苦心の翻訳

時代の反映と言えば、'90年に観たとき、クリスティンが夢中になっていたテレビ番組が“アンディ・ウィリアムズ・ショー”だった。当時僕は「ふ~ん、そんな番組があったのかぁ」なんて思っていたが、次に観たときにはそれが“エド・サリヴァン・ショー”に変わっていた。そう、NHKで「エド・サリヴァン・ショー」を放映した後だった。ずいぶん大胆に置き換えたものだ。たしかに日本では当初エド・サリヴァンの知名度が低かったかも知れないが、だからと言ってアンディ・ウィリアムズに変えてしまうとは如何なものなのか・・・。

この手の固有名詞の置き換えは他にも幾つかあった。『モンタージュ』のナンバーで、マークが「Locked in the bathroom with “Peyton Place”」と歌うところは、「トイレでこっそり“チャタレー夫人”」と変わっていた。前者はグレース・メタリアスの「ペイトンプレイス物語(Peyton Place)」で、後者ははもちろんデヴィッド・ハーバート・ローレンスの「チャタレー夫人の恋人(Lady Chatterley's Lover)」だ。 猥褻な読み物の代表と言えば、日本ではやっぱり「チャタレー夫人」か。他に、コニーが憧れているプリマ・バレリーナはマリア・トールチーフではなく、マイヤ・プリセツカヤである。マリア・トールチーフと言われてピンとくる日本人は少ないだろう。1979年の初演以来、まず観客にストーリーを理解させるための工夫なのだ。

そうそう、余談になるが、オーディションの最終選考でザックが不合格者を一歩前に出させるっていうシークエンスがある。僕はこのちょっとどんでん返し的な展開、案外嫌いじゃない。映画版では“一歩前に出る=受かったと思う”という意図を強調してたけど、ショー・ビジネスの厳しさを際立たせて、ドラマツルギー的にも巧いと思う。実は最初に「何人採るんですか?」と聞かれ、ザックが「4・4」と答えているんだよね。有頂天になればそんなこと忘れちゃうのだろうけど。

四季の“ジプシー”たち

アンサンブルあってこその作品なので、個々の俳優さんたちをどうこう言うのも無粋かと思うが、僕の記憶に残ったパフォーマンスを紹介しておきたい。

まずは初演からずっとマイク役で出演していた飯野おさみだ。最近はさすがにザックにまわってしまったが、'93年に観たときもまだマイクを演っていたから、その若々しさは特筆すべきであろう。マイク役では田邊真也も将来性を感じさせる存在感があった。

それからボビー役の芥川英司も良かった。ほかの俳優と比べるとかなり作為的と思える役づくりだったが、それが良い意味でボビーの生い立ち、寂しさ、屈折した性格を表現していた。むしろほかの俳優があっさりしすぎてるんじゃないかと思えた。

柴垣裕子のシーラも素敵だった。《オペラ座の怪人》で厳格なマダム・ジリーを演ってた人がである。いきなりセクシー且つ大人の魅力を振りまく女性への大変身。それがあまりにもハマっていた。《キャッツ》などでもダイナミックなダンスは披露済みではあったけれど、あんなに歌えてこんなに踊れるのかぁと、とにかく感嘆した。

コニーの青山弥生は、この役には彼女以外あり得ないと思えるほどで、見るたび可愛らしく、「あたし32歳で14歳の子供の役よ」なんて言われるともうホントびっくりって感じだった。この人以外考えられないということでは礒津ひろみもそうで、長いことビビを持ち役にしていて、はじめは少し怪しかった歌もだんだん上手になっていた。

マギーでは井料瑠美が忘れがたい。《ウェストサイド物語》のロザリアで観たことはあり、歌の巧い人という印象ではあったが、『アット・ザ・バレエ』でのソロを聴いたときはゾクゾクした。マギーと同じくダンもあまり派手な役ではないが、そんな中できちんとその存在をアピールしていたのが今拓哉だった。甘めのマスクと声も一役買って、歴代の中でもベストなキャスティングではないだろうか。

それから、なんと言っても保坂知寿のヴァルが最高だった。'95年に観たときはラインの中でも相当ベテランのほうだったが、抜群のプロポーション、しなやかなダンス、そして何よりもその達者な演技力!(後に観た新人女優など、台詞のたどたどしいこと甚だしかった) これぐらい歌も芝居も達者なダンサーが揃えば《コーラスライン》はもっと面白くなるのにと思う。

そして、今もなお記憶に残っているのが、'93年に出演した志村幸美のディアナだ。ディアナには彼女はちょっと大人っぽすぎかなぁとも思ったが、まったく思い過ごしだった。この役にはソロ・ナンバーが2つあるが、最初のナンバー『ナッシング』のコミカルだったこと。宿敵カープ先生の作りが可笑しくて、「こんなコメディー・センスがあったとは」と驚いた。終幕の『愛した日々に悔いはない』も実に感動的だった。このナンバーは、ダンサーたちへのオマージュであり、日々懸命に生きている人たちへの応援歌でもある。だから、彼女が高らかに歌い上げると、より感動が深まるのだ。

ポールは下村尊則味方隆司で観ているが、どちらかと言えば、線の細い味方のほうが適役だと思った。台詞をボソボソと喋るところが、ポールの内向的なところを巧く表していた。下村はこういう役よりも陽性なキャラクターを演じたほうが本領が発揮できると思う。本筋ではないが、彼の最高のハマリ役は《ジーザス・クライスト=スーパースター》のヘロデ王だと思っている。

加藤敬二はリチー、マイク、ボビーの3役で観たが、いちばん良かったのはリチーだろうと思う。やはりダンスの見せ場があるって言うのが決め手かな。ただ、芝居に関しても、きめ細かい演技が苦手なのか、ボビーに関しては芥川よりかなり薄味だったし、マイクも何だかちょっと雑だった(あとソロ・ナンバーがちょっとツラかった)。それに比べると荒々しいぐらいがちょうど良いリチーがいちばん違和感がなかった。

坂本里咲もクリスティン、マギー、ディアナの3役で観たが、クリスティンが良かった。ストレート・プレイで見る坂本はわりとキツい役が多いが、クリスティンは大ボケぶりが愛くるしかった。それに、この役には相当の演技力が必要なんだなぁと感じたのは、のちに別の女優が演じているのを観てからだった。並の演技力ではただの鈍くさい女の子になってしまい、全然魅力的じゃないのだ。マギー、ディアナは坂本の歌声では及第点というところ。

不思議なことに、キャシーにはまだ「これぞ!」という人がいない。ダンス、芝居、歌とどれが欠けてもこの役には致命的なのだけれど、今まで観た中では桑原美樹がかなり良かった。しかし、当時はまだ若く歌と芝居が荒っぽいなぁという印象で、後に《思い出を売る男》の舞台で見せた素晴らしい演技力はキャシーではまだ見られなかった。むしろ彼女は同公演でジュディを演っていたが、溌剌としたキャラが断然良かった。ほかでは八重沢真美は歌が及ばず、林下友美もやはりそうだった。もう少し若く声量がある頃に保坂知寿に演ってもらいたいなどと思っていたが、いつかは『ミュージック・アンド・ザ・ミラー』を迫力ある歌とダンスで観てみたいものだ。

駄作? 映画版《コーラスライン》

映画の《コーラスライン》に触れておこう。ハッキリ言って僕はこの映画が嫌いだ。クソ映画と言ってもいい。

いろいろ意見はあると思うが、僕が考えるに、舞台作品を映画化するに当たっては、オリジナルの舞台のモチーフをいかに壊さずに、映画というメディアならではの利点を生かすかが成功の鍵と言える。アッテンボローはそこを誤ってしまったようだ。何しろ、群像劇であるはずが演出家ザック(マイケル・ダグラス)を主役に据え、常に彼の視点で物語が動いていくのが気に入らない。ブロードウェイのマーク・ヘリンジャー劇場で撮影したらしいが、舞台以外(楽屋や裏口)にカメラが出てみたり、ナンバーのカットや変更の仕方も、オリジナルの舞台を愛している者からすれば冒涜とさえ思う。各ダンサーはちょっとずつ性格を薄くされ(ビビとマギーは変にブレンドされてる)、あろうことかキャシー(アリソン・リード)なんて遅刻してオーディションにはほとんど参加していないのに合格してしまう(意図不明)。

ラスト・シーンがまた悪趣味。100人はいるだろう大群舞である。《コーラスライン》のタイトルには冠詞の“A”が付いているが、一説によると、アルファベット順に紹介される公演情報誌で目立つためにマイケル・ベネットが付けたとも聞く。しかし、この“A”には“一本の”という重要な意味があるのだ。コーラス・ダンサーたちは舞台の上に引かれた“一本の”ラインを踏み越えることは決してない。だが彼らにとってこの“一本”のラインの後ろに立つということが、どれほど大変で尊いものであるか。だからこそラストは、すべてを晒け出して闘った17人にザックとアシスタントのラリーを加えた19人が揃って、ラインに真一文字に並んでコーラスライン・キックを上げ、観客もまた感動するのだ。それをスクリーンいっぱいの人・人・人。大勢で踊らせれば感動するってもんじゃない。

まあともかく、何だかんだ言っても《コーラスライン》はミュージカルというジャンルを代表する素晴らしい作品だ。ニューヨークでクローズしてから相当経つが、時代背景なのだろうか、未だ再演はない。だが、作品の持つメッセージは時代を超えて支持されるはずだ。劇団四季だけでも、これからもぜひ上演し続けていって欲しい。

[2000.2.16]

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